アメリカって(´・ω・`)

前の硫黄島関連の日記書いた前後から、久々に太平洋戦争関連のサイトや書物を読み漁ってたりしたんだけどもー。

見れば見るほど、知れば知るほどアメリカの悪行の数々と言いますか、領土だけは広くて器の小さいというか、ケツの穴の小さな国だという思いが.。.:*・゜゜・(´ー`).。*・゜゜・*:.

まず、太平洋戦争に関連してのアメリカの厚顔無恥な要求や、
人種差別に根付いた決定をいくつか検証(´・ω・`)

まずは、何と言ってもハルノート。
これを語らずしてアメリカのどあつかましさは語れませんな。
太平洋戦争開戦までは、ヨーロッパ・アフリカ方面での戦闘が主で、アメリカはモンロー主義によりヨーロッパに深くは関わらないという民意があったんだけど、戦後の国際社会での地位や利権のためにはどうしても参戦、戦勝国に名前を連ねたかったアメリカ。同盟国のイギリスやソ連の催促もあって、とにかく参戦したかったルーズベルト大統領なんだけども、かといって自発的な参戦は国民の反対にあって政権を失いかねない。そこで目をつけたのが、WW1で運良く戦勝国になって、アジア方面でめきめきと成長著しい日本。特に東南アジアへの進出を伺い、中国大陸ではアメリカと真っ向から対立してた日本が日独伊三国同盟を締結したのを見て、「日本の連中が戦争をしかけてくれば、三国同盟の条約どおりにドイツやイタリアもアメリカに宣戦を布告してくるだろう。そうすれば『敵の攻撃を座して待つわけにもいかない。断固反撃する』という大義名分と、戦後の国際社会での地位と利権が転がり込んでくるなぁ」と考え付いて、イギリスと共謀して日本との対話を、対日戦の開戦準備期間として時間稼ぎをする、という方針に転換したんよね、大西洋憲章って呼ばれてる奴。日本はそれ以前のアメリカの出した要求(ハル4原則)についても、それは受け入れられないけども、妥協案も出せば首脳会談も丁重に申し込んでいたのに「先の4原則が受け入れられない限りは会談に応じることは出来ない」みたいなことの一点張り。そして1941年の11月、ハルノートを日本に叩きつけたんだよね。たしかに、日本は大西洋憲章を受けて「戦争を辞さざる決意のもとに」外交交渉を重ねていったんだけども、理由はともかくアメリカとの開戦は避けたかったんだよね、海軍が中心で(アメリカとの戦争では、陸軍ではなく海軍が主体となって戦うし、部隊の性質上、陸軍よりも欧米文化や欧米諸国の実情に詳しかったからこそ、「アメリカと戦っても勝てない」というのは海軍上層部では認識されていた)。そういう理由から、根気強く続けられてきた日米交渉の全てを無視して、アメリカ自らが斡旋した国際的な講和条約(日露戦争の講和条約。この講和条約で日本が得た「遼東半島租借権」のみならず全満州からの総撤退などを要求したハルノート。 ハルノートは日本に「戦争してほしくなかったらお前らは日清戦争・日露戦争以前の領土にまで領土放棄してから」と言った、天地がひっくり返ろうとも受け入れることの出来ないものだったんだよね。これだけでなく、アメリカが支援している、重慶の国民党政府以外の中国における政権の否認や、日独伊三国同盟の死文化など、到底受諾できないものばかり。
日本の暗号を解読してたアメリカが対日戦争開戦を日本よりも先に決意し、なおかつ日本に先に手を出させようとして行われたのが根底にあるし、あからさまな敵意や不信感を隠しもしないで交渉の場についてた(交渉の場にはつくけども、それだけで具体的な話は一切進めない遅延策を取ってた)のがアメリカ。
そんなアメリカが世界の警察という現状が嘆かわしい(−x−;

ハル・ノートを叩きつけられた日本の開戦回避派の人たちは、
ハル・ノートを叩きつけられて「目がくらむほどの失望に打たれた」とまで言ってたんよね。部分的にではあるけども先のハル4原則を受け入れた妥協案を提示してたりで、米国の案に少しでも歩み寄って平和的対話を続け、心から戦争を回避したいという人たちが反対勢力を押し切ってまで進めてきた日本の案を退けたばかりか、ハル・ノートを突きつけたんよね。
それまでは開戦反対派だった人たちに決定的な打撃を与えて「アメリカのあの態度・要求案を見るに、開戦もやむなし」となってしまったのよね。
開戦までの軍令部総長である、永野修身氏は
「米国の主張に屈すれば亡国は必至とのことだが、戦うもまた亡国であるかも知れぬ。だが、戦わずしての亡国は魂を喪失する民族永遠の亡国であり、最後の一兵まで戦うことによってのみ死中に活を見出し得るであろう。戦ってよし勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残ればわれらの子孫は再起、三起するであろう。」 と言ったり。
ハル・ノートに関して言えば、日本はもちろん、東京裁判の判事や、身内からまで「ハル・ノートはあかんやろ」と言われてるもんだからねぇ・・・。日本による真珠湾攻撃でさえも「ハル・ノートに対する日本の返答だろう」と言わしめたほどの、強烈な文書による攻撃だったのさ(´・ω・`)

@パール インド代表極東軍事裁判所判事
「真珠湾攻撃の直前に米国国務相が日本に送ったものと同じような通牒を受け取った場合、 モナコ公国やルクセンブルク大公国でさえも戈をとって起ち上がったであろう」

@オリバー・リットルトン 英国軍需大臣
「米国が戦争に押し込まれたというのは歴史を歪曲するのも甚だしい。 米国があまりにひどく日本を挑発したので日本軍は真珠湾で米軍を攻撃するの止む無きに至った。」

@1944年6月20日 ロンドンでの演説
ロバート・クレイギー 駐日英国大使
「ハル・ノートは日本の国民感情を全く無視したもので、あれでは日本として立たざるを得なかった。イギリス政府が私の意見に耳を貸さなかったのは、かえすがえすも残念だ。」

@太平洋艦隊司令長官 キンメル大将
「1941年12月7日(米国時間)朝の攻撃は、 コーデル=ハル国務長官の11月26日の対日最後通牒に対する烈火の回答であった。」

みたいな(´・ω・`)
身内からでさえもこんだけ批判されてて、いまだに「世界の警察」とかほざいて正義ヅラしてるアメリカに、乾杯.。.:*・゜゜・(´ー`).。*・゜゜・*:.

@おまけ
太平洋戦争初期の、フィリピンのコレヒドール要塞攻防戦の米軍捕虜への虐待、いわゆる『死の行進』だけどねぇ。
戦争当時の日米の差を考えれば、日本完全無罪とは言わないけども、不当な裁判とは言える。

アメリカ側の主張は「敗戦後、日本軍はアメリカ軍捕虜を炎天下の下何kmも、何十kmも歩かせた結果、アメリカ軍捕虜は餓死するほどまでに衰弱したり、マラリアなどの病気にかかって多くの死者が出た。これは全て日本軍の残虐な行為である」といったものなんだけどもー。

1:工業力の貧弱な日本と、工業力の強大なアメリカでは、
自動車の普及率も大きく違っていた。国土・領土の違いも相まって、徒歩での移送・移動が普通の日本軍と、車での移送・移動が普通のアメリカ軍の認識の差。 それに、本土部隊への車両の配備もままならないのに、日本から遠く離れたフィリピンの侵攻部隊と、その侵攻部隊による捕虜10万人へ満足に車両を配備できる数などなかった。
日本軍部隊の重傷者でも、味方の担架や杖をついて歩かなければいけない状況なのに、捕虜を車両に乗せれるなどできようか、いや、できまい。反語。

2:そもそもコレヒドール島の要塞に篭もっての篭城戦の時から、多数の米軍部隊に糧食の不足やマラリアなどによる体力の消耗は認識されていた(さらには、負け戦で士気が大きく影響)。

つまり、死の行進は、 当時の米軍部隊の状況と、当時の日米の工業力および自動車の普及率、および車両に対する意識の差をちょっとでも冷静に考えれば、不当裁判であるとわかる。
この事件の戦後の裁判は、当時のフィリピン派遣米軍司令官、
マッカーサーが、当時のフィリピン侵攻軍司令官の本間中将への
お門違いな逆恨みだけで行われたものですな。

朝鮮戦争の時にも、マッカーサーは人種差別を隠しもしないで
「核を使わせろ。朝鮮人など知ったことか」といった要求を本国に何度も出して、ついには更迭されたクズ。
太平洋戦争初期の日本軍のフィリピン侵攻に際しても、
 自分だけ「私はいずれ戻ってくる」みたいな捨て台詞を掃いて、10万を越える将兵・部下を見向きもしないでさっさと逃げ帰ったチキン。
そんなチキンのクズを英雄視する(してた、とは言えないね)アメリカが、今の世界の警察かぁ・・・(´ω`)

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咲

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